幻の童謡詩人・金子みすゞ

金子みすゞの世界

ごあいさつ


このサイトは幻の童謡詩人『金子みすゞ』の生涯を追いながら作品を紹介致します。
少しでも多くの方に金子みすゞの素朴で優しい目線の先にある詩の魅力が伝わりましたら幸いです。

金子みすゞの生涯


金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年(明治36年)4月11日 - 1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。本名、金子テル(かねこ テル)。


大正末期から昭和初期にかけて、26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴ったとされます。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは若き童謡詩人の中の巨星と賞賛されました。


山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身のみすゞは郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業します。

父は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長でしたが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死をとげます。

劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟ですが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されます。叔母の死後、正祐さんの養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住むこととなり同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となりました。


1926年(大正15年)、叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうけます。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われます。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じました。


さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まりました(手続き上は成立していませんでした)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求します。夫は一度は受け入れましたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求しました。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺します。金子みすゞは26年の短い生涯に幕を閉じました。
生家跡に建てられた金子みすゞ記念館

忘れ去られた幻の詩集


金子みすゞの詩は長らく忘れられていました。

岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ詩人の矢崎節夫さんらの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になったのでした。翌年の東京大学の国語の入試問題(1985年国語第二問)には「積もった雪」「大漁」が採用されています。現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されることも多くあります。また、このことをきっかけに地元長門でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館されました。みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、貴重な直筆の詩作のメモなどが展示されております。

また、長周新聞によりますと、かつて長周新聞の主幹であった福田正義さんが矢崎さんをはるかに遡る1937年、雑誌『話の関門』の中で金子みすゞの生涯と作品を紹介したとしています。しかし当時の福田さんの紹介は地元(下関)の雑誌で掲載されたものであり、後の矢崎さんの紹介の時ほど広く知らしめるには至りませんでした。

私と小鳥とすずと

詩 金子みすゞ

 

わたしが両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥はわたしのように、

地面(じべた)をはやくは走れない。

 

わたしがからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴はわたしのように、

たくさんなうたは知らないよ。

 

鈴と、小鳥と、それからわたし、

みんなちがって、みんないい。

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『みんなちがってみんないい』と、みすゞの視線

現代は『みんなちがってみんないい』と個性を賞賛される時代であり、詩のテーマとしても目新しいものではありません。


しかし金子みすゞの視線の素晴らしさを知るためにはみすゞが生きていた時代背景と重ねて紐解いていかなければこの詩の本当の良さはみえてきません。

みすゞが生まれたのは大正時代です。激動の日本では『みんなちがってみんないい』と言う意識はありませんでした。

皆同じ方向を向いて生きていかなければいけない、そういう時代でした。その時代にみすゞの目線は個人の個性に向けられていたのです。それぞれに生まれてきた理由があるのです、と。

大正時代に誰もが思わなかった発想、みすゞの考え方はまさに斬新なものでした。